宮城県丸森町の愛敬院から福島県伊達市の霊山までマイクロバスでおおよそ1時間。バスの中では、修行の心得や解説を受ける。特に今回は本山である聖護院からも来山とのことで、解説にも力が入っていたらしい。加えて、これは修行であってハイキングでも観光でもないことをクドクドと言われる。そのため自分の修行記録として写真を撮っておきたいと考えていたのだが、どうするか迷う。
霊山入峰修行の目的は疑死再生(ぎしさいせい)。つまり、「一旦、死の世界へ入り、山を母体と観想し、山中でいろいろな修行をして体についている塵(煩悩=悩み、苦しみ等)を振り落とし、清らかな体となって山を下り、わらの火を飛び、産声をあげて生まれ変わる」*1ことだ。そのため、本来であれば山へ入る前に自分の葬式を挙げるのだそうだ。
すでにネットや図書館から本を借りるなどして予備知識はあったが、十界の修行*2や六波羅蜜の実践*3の説明を受けているうちに、霊山のふもとに降り立ったのだ。
霊山登山口から山へ入り、覗き岩など各ポイントとなる行場を通って霊山城で昼食。湧水キャンプ場まで下山したら再びバスで霊山神社まで移動して参拝。ここまでが霊山での修行であり、その後は愛敬院へ帰山し、再生の儀式を経てめでたく満行となるのだ。
山へ入る準備をした後、円陣を組んで自己紹介。宮城県内はもちろんだが、東北各県をはじめ遠くは関東方面からも参加者があった。真剣に修行を志して来山した方もいるのだが、不埒ながらボクはもうワクワク気分で笑みを抑え切れないほど気分はハイテンションだった。本日の天候、夕方からは降水確率50%との予報だったが、神仏の御加護で快晴。
我々は隊列を整え、いよいよ入山。先頭としんがりを務める山伏の方々の法螺貝の音が、とても心地よく聞こえる。参加申込書には保護者同伴であれば小学生の参加も可とあったので、たぶんルートは”ぬるい”だろうと予測していた。*4全ルートを通して一部にクサリ場はあったものの、実際そのとおりであった。でも、そこは修行なので道をかみ締めなければならない。
修験道の山伏修行といえば、これだ!と思い浮かべられるのが「覗き修行」。修行の意味としては煩悩をのぞく、捨身行のひとつということらしい。でもボクは凡夫だ、これをやらずして帰れるものか! 希望者のみであったけど、初参加の方々の思いはみな同じらしく、希望者を募ったときにはハイ!ハイ!ハイ!と元気よく修行意志を示す手を挙げたのだった。それでも逡巡している人には「不動明王が護ってくれる」と山伏の一言。そう、これは修行なのだ。
たすきのように上半身にロープをかけてもらい、また腰に螺緒(かいのお)*5を装着してもらえば、いよいよだ。
岩の上に腹ばいになって、合掌した姿で身を乗り出す。「もっと前へ出ろ」といわれ、じりじりと上半身を空中にさらし出す。山伏の「修行するかぁー」の声に「ハイ」と答える、というより叫ぶ。「親を大事にするかぁー」「ハイ」と続くのだが、何を問われたのかあまり記憶がない。覚えていない。どんな問いでもハイ、ハイと叫び続け、最後に「声が小さい!」「ハイ」で終わったと思い安心していると、さらに前に押し出される。この最後の儀式があることは予備知識として持ってはいたが、そんな知識も頭の中から飛んでいたので思わず「グフッ」と声が漏れたのだった。
霊山での入峰修行は、覗き修行を除くと基本的に行場のポイントで勤行をしながら進む。例えば霊山庵を開いた大江良賢師*6が三週間の断食修行をした篭り岩不動尊では、全員そろっての勤行をする。
読誦のコントロールやリズムをとる錫杖のシャリンシャリンという響きが心を洗ってくれる。山々にこだまする法螺貝の音は、精霊が住むような異空間の中に我々をやさしく包んでくれる。なにもかもが新鮮だ。葬式や法事という、いわゆる抹香くさい場でしか経典を聞いたことがない人には、まさに別世界だろうと思う。
ただし一言いわせてもらえば、法螺貝のヘタな山伏は迷惑だ。フォ〜の心地よい音色のあとにキヒャァ〜ギヒョォ〜とくるので、リズムが狂う。せっかく神仏の世界に安住しているような気持ちよさでいるのに、一気に現実世界に引き戻されるのだ。山伏の皆さんには、法螺貝の練習をすることを切にお願いしたい。
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