愛敬院へ帰山するマイクロバスの中でウトウトする。入峰修行の行程は体力的にみて厳しいものではなかったが、たぶん緊張はしていたのだろう。緊張感から開放されて”ぬるい”気分に浸るのだった。
参道を先達の山伏を先頭に一般参加者、しんがりの山伏と続く1列縦隊の山伏隊列で進むと寺務所から出迎え(?)の人たちが出てくる。夕暮れが迫り薄暗くなってきた。山門と鳥居の前の石畳の上に置かれた藁には火が付けられ、あたりをほんのりと照らし出している。再生の儀式の準備が整っていた。
山に入る前に死んで、山中では母の胎内に宿って修行し、この藁の火を飛び越えることで生まれ変わるのだ。「ア・バン・ウン」の真言を唱えて飛び越える。この真言を唱えることは、いわば産声をあげるようなものだという。なぜか理由はわからないが、自然と笑みがこぼれたのだった。泣きたくなるほど厳しい入峰修行ではなかったけど、やはりやりとげた、満行できたことを素直に喜びたい自然な気持ちではなかったかと思う。他人からみればいつものボクかもしれないが、ともかく疑死再生(ぎしさいせい)を果たしたのだ。
本堂へ入り最後の修行である護摩修行*1。護摩の火をこんな近くで見たのは初めてだ。不動明王の真言を唱えながら護摩が焚かれている間、山中での勤行するさわやかさ、覗き修行で大声を張り上げたこと、次に何が現れるのかワクワクしながら歩いていたことなどなど1日の行程を振り返っていた。これでもう当分の間、法螺貝の音も錫上の音も聞くことはないだろうと思うと、ちょっぴりさびしくなったのだった。
今回の霊山入峰修行で何かつかめたのか? 生まれ変わったのか? 正直なところボクはよくわからない。凡夫であるボクは、来年再び霊山で入峰修行しなければなるまい。
めでたく我々一般参加者は全員が満行だ。満行証がひとりひとりに手渡され、満行を祝う膳を囲みながら思い思いにきょう1日を語る。理由はうまく述べられないけど、ボクにとっても満行という入峰修行の完遂は貴重なものだし、紙一枚の満行証ではあるが、その重さは格別だったのだ。
山伏のひとりが山中でも大きな荷物を抱えたままだった。万が一のための救急セット、もしくはAEDでも入っているのだろうか? その中のひとつはどうやら日本酒だった。みなさんが遠慮して手を出さない中、凡夫のボクはありがたく自主的にいただいて「霊山入峰修行」の1日をかみ締めたのだった。
勤行次第は、(1)三条錫杖、(2)般若心経、(3)諸真言(大日如来・不動明王・高祖宝号)、(4)本覚讃で組み立てられている。20年以上も昔、真言系の寺院で修行の真似事をしていたことがあるので真言や般若心経などは覚えていたのだが、微妙に読み方が違っており最初はとまどった。あとで調べてみると、天台系の読み方であるらしい。
この画像からではルビどころか、本文も読めまい。だからPDFファイルとしたので、興味のある人は読んでみてはどうだろう。